信念を見つめていくこと

自分の中のおぞましいものを恐れずに誠実に見つめていこう、自分自身が行ってきた言動への責任をとっていこうという覚悟を定め、現在、知覚(感じていること、こうだと判断していること)に対して疑いを発するということを行っています。

 

奇跡のコースもそうですが、本当のスピリチュアルは、徹底的に現実的であり、どんなツールや道であっても、自分を不自由にしている信念や価値判断に気づいて自由になること、事実を事実として見ることに通じているのではないかと考えています。

 

少なくとも私の心の師匠たちはは現実(今起こっていること)から逃げていいよ、全部ワンネスで愛で問題などないということは言ってくれません・・・笑。

 

非二元の側面からは確かに起こることは起こるままであり、私というものも問題も存在しないけれども、目覚めの一瞥が大事なのではなく、大事なのはそのあとということも相当にキツく言われてきました。

 

今回は、久々にバイロン・ケイティの「ザ・ワーク」に取り組み始めました。

 

このワークは、誤魔化しが効かないので、逃げ回ってばかりいましたが、とうとう観念して、今必死です。

 

入り口は、一番扱いやすい(気づくことが容易な)激しい怒りを感じたことを題材にしながらです。

 

どれほどコントロールしたいとか変えたいと思っても、起こっている状況も他者も私たちには変えることができません。

 

私たちが何とかできるもの、責任の範囲が及ぶものは、自分自身が選択している物事への見方と心の平安だけです。

 

知覚に対して疑いを発するということは、自分が選択しているビリーフ(思考や信念)に気づくこと、責任を自分に戻して被害者意識から脱していくことに役立ちます。

 

私は長年、親子関係の問題、特に母娘の関係性に頭を悩ませてきました。

 

カウンセリングを通して、その母娘関係において母が毒親であること、母に対して怒ってもいいんだということも何度もカウンセラーと一緒に見て認めてきました。

 

罪悪感の方が大きすぎて(母は娘にこんなに一生懸命やってくれている、母は自分を犠牲にして娘を優先してくれた、こんなに取り柄のない娘でごめんなさい等)、残っている課題もたくさんあります。

 

一方で、本当に母が悪いのか、母が変わればよかったのかと突き詰めていくと、そのまた上の世代においてもおそらく娘であった母としてはそうなるしか致し方がない部分もあり、誰かを責めることはできない、その人(母)がその時にそうであったのはそうしかできなかったからだということもまた一つの事実だと考えています。

 

話が逸れてしまいましたが、結局のところ、誰かを責めたり誰かが変わったりしたところで本当の本当は自分の中に平安は訪れないのだな、解放されるべきは自分の選択している信念やビリーフだけからなのだな、というのが私が選択している考えです。

 

そのためには、どれほど愚痴や不満を言ってもいいけれども、自分自身が自分の心の平安に責任をもつこと、何を感じていたとしても自分の選択として一旦認めることがスタートとなります。

 

私は、自分の人生に、仕事や結婚のこと、何もできない自分のこと、両親との関係性のあらゆることに不安や不満を持っています。

 

半年前、ぐるぐると終わりなきその不安と不満の迷路をぶつけ続けたとき、心の師匠から、「それならやめたらいい(具体的には仕事のことについて)」と言われた一言が私の怒りを喚起し、ずっとしこりのようにひっかかっていました。

 

でも、今改めて自分が怒ってしまうときをひとつずつ見つめていくと、心の師匠からの一言は、「他者や状況のせいにするのでなく、自分自身の心の平安に責任を持ちなさい。そこからしか何も始まらないよ。」というものすごく鋭い言葉だったのだと深く深く突き刺さっています。

 

自分の選択に責任をもつことへ立ち返らせる機会となりうる言葉を、当初、しかと受け取れず、怒りをぶつけて関係性を破壊してしまったこと、とても悔やまれます。

 

感服の思いと、今からでもその言葉が指してくれるものと向き合いたいという思いでいっぱいです。