父の孤独

この1週間ほど、バイロン・ケイティの問いかけのワークに行き詰まりを感じています。

 

行き詰まりを感じる中でも淡々とやり続けることが打開になるとも思っています。

 

今の題材はひたすら「父」が出てくるのですが、私としてはあまり考えたくないテーマのようで、いや~な気持ちや重い感じ、逃げたくて仕方がないということが続いています。

 

父を題材にすると、必ず、認めてほしい、尊重してほしい、無下にしないでほしい、拒絶しないでほしいというところに辿り着いてしまいます。

 

そして、置き換えると、私が父にしてきたこと、特に大学生頃までにしてきたひどいこと、現在も残るそれらの欠片を見つめなければいけないのが、想像以上に苦しいようです。

 

でも、それを見ていくと、家族という枠組みの中での父親の果てしない孤独とストレスというものがどんどん垣間見えてくるのです。

 

父に対して感じている問題が色々ありますが、努力が足りないでしょ!考えなし!とは言えなくなったり、致し方がない部分もあると感じ、私自身の見方を取り下げようという気持ちになります。

 

家族がいるにも関わらず、誰からも認められない、愛されない、それが言動でも思考でも降り注ぐストレス。

 

父がテーマだと心底キツイ・・・という感じです。

 

この闇を通り抜けられますように。

不安な中で

この3日間ほど、小さな苛々と漠然とした不安が居座っていてすっきりしない気持ちです。

 

外側の原因を考えると、排卵日をすぎて月経に向かってPMS期、仕事で席替えが近くて緊張、ウイルスの影響で在宅勤務の可能性が出てきたこと、両親との関係性で考えさせられることが続いていること、などなど。

 

心の内面を見つめていくことが大事と考えていますが、時には外側から働きかける(身体がやわらかいときには心もやわらかく、身体が固いときには心もガチガチに固まります)ことも有効なので、今日はアロマオイルのマッサージを受けてきました。

 

心地よく感じた香りは、シャクナゲとプリムローズとカモミール

 

落ち着いてはいるのだけれど、奥底の忘れかけて沈んで固まっていたものがあったようで、緩んだことで久しぶりの頭痛と押込めていた不安が溢れ出てきた感じがしています。

 

昨日も今日も、この数週間収まっていた過食衝動が起こっています。

 

漠然としたこの不安や孤独というものを紛らわせるために何かと一体化したい、一体化すれば安心できるという自我の錯覚です。

 

この数週間で、本当は食というものにさほど執着がなくてお腹をはちきれるまで満たしたいわけではないという感覚を取り戻しつつあり、衝動で食べたいと感じているチョコレートやラーメンやインスタント食品やスナック菓子を本当に食べたいの?と立ち止まって、口に入れず、食べてしまった後の心も身体も辛い不快感を味わうことなく済みました。

 

ちょっと進歩です。

 

怒りでも過食衝動でも、起こっている自我という錯覚を見抜いていくこと、何度も何度も心の筋トレをして習慣にしていくこと、なのだと思います。

 

ふと昨年11月に溝口あゆかさんのお話会に参加したときのことを思い出しました。

 

色々なことを感じましたが、何よりも、あらゆるツールを徹底的にされている、真実を知りたいという飽くなき探求心と実践があるのだということがとても印象的でした。

 

長年そばにいてくださった心の師匠も間近でそうした姿を見せてくださっていました。

 

セッションの中ではその陰なる苦労というのは決して出されませんが、カウンセラーにはなるものでなくどんな時でもカウンセラーであること、見えない水面下で果てしない努力をして豊かにしておかなければいけないよと言われたことを思い出します。

 

今こうして振り返ると、自分を責める意味ではなく、私は努力も覚悟も足りなかったし、真実を求めていなかったんだと思います。

 

今、世界的なウイルスの影響で日々刻々と世界も取り巻く環境・状況も変化し、予測不能でコントロールできるものなど本当はないという事実が目に見える形で見えていて、きっとこれまで変えられなかったもの、大事だったり必要だと思い込んでいた信念や概念が崩壊し、手放すときが訪れている気がしています。

 

それは私自身の中にもおそらく同じように起こっています。

 

このような中で、私は改めて何よりも心の平安を選択したい、どんなものを見聞きしても自分の投影として認めて錯覚を取り消していきたいと強く強く願っています。

 

今、心の師匠の焔の火が私の中にもふっと灯り、自我による解釈・判断というもので目を曇らせたくない、本当のこと、真実・事実をありのままに観たいという炎が静かに静かに燃えています。

気づきは自分の中に

私は物心ついたころから、将来のことがずっとずっと不安でした。

 

安心したくて、これで大丈夫という答えがほしくて彷徨い、20代前半の時に心の師匠(カウンセラー)に出会いました。

 

私の認識の中では、心の師匠はとてもとてもすごい人で、それまでの人生で見たことがないくらい努力家で、何でも知っているように見えて、でも一方で、子供のように無邪気で果てしなく自由で遊びがあって、私にとっては魔法使いのような方です。

 

その方と一緒にいれば、その方だったら答えに導いてくれるかも、私を変えてくれるかも、若い私の心の中にはそんな理不尽で無謀な期待が溢れ返っていたと思います。

 

幸いなことに、その方はとてもとても誠実な方で、そんなものはないよ、自分で魚の捕り方を覚えないとねと真摯に私に向き合い続けてくださいました。

 

そして、私の自我的には不幸なことに、ほしい目先の答えや自我的な安心感は得られませんでした。

 

(心の師匠の誠実さには頭が上がりませんし、答えを与えず捕り方を掴ませる姿勢には本当に感謝していて、私自身もそうありたいと思っています。)

 

私が理不尽な怒りを一度ならず何度もぶつけて関係性を破壊してしまったにも関わらず、おそらく今も真摯に向き合ってくださっていると思います。

 

怒りで関係性を破壊してしまったことと心の師匠の病が重なり、何ヶ月もお会いできずにいますが、次に会う時には必ず私は自分が選択してきてしまったパターンや自分が行って破壊したり傷つけたりしてきた言動に責任をとるという気持ちで、今、自分にできる限りでですが真剣に心と向き合っています。

 

心の師匠から、外側から伝えることには意味がない、必要なのは気づきの一瞬だけ(1秒でいい)としばしば言われてきたのですが、師匠から離れて心と向き合う過程で本当にそうだなと何度も感じています。

 

多くの時間(法外な時間)とあらゆる言葉を尽くしていっぱいいっぱい伝えていただいてきましたが、それが自分の中で気づきとして起こらないと、自分で答えに気づかないと、本当にそうだ!と深く自らを省みないと、変容は起こらないし苦しみから脱せないのだという絶望を感じています。

 

自分が変われないことや不幸であることをどこかで心の師匠のせいにしたり、依存して頼りきりで変わろうとしなかったということを自分に対して認めざるを得ません。

 

私自身の言動で破壊したこともですが、そのように時間を使ってしまっていたことも、師匠に対して本当に申し訳なく思っています。

 

絶望しきっている今だからこそ、淡々と、かつ真剣に自分自身の心をパターンを見るということが起こっています。

 

心の師匠と連絡をとると、私はいつもふっと甘えが出て、無意識に安心してゆるんでしまい、外側の人も状況も本当は私を助けられなくて自分でやるしかないんだよということをするりと忘れてしまいます。

 

今もちょっぴりそんな感じで、この数日は忙しかったことを理由に、怒りのパターンを見ることを疎かにしてしまい、積もってきた・・・となっています。

 

この無意識に安心して自分の努力をやめそうになってしまうというのは、師匠を頼りきって依存している、何かそうした確固たる対象がないと不安(逆にそれがあれば安心)というパターンで、どこまでいっても安心できないな、なんとか抜け出したいなと考えています。

 

心の師匠からの、自由になってる姿を見れるのを楽しみにしています!という言葉を励みに、そしても今も修行に学びに真摯にされている姿を励みに、私も毎日毎瞬を大事に生ききらなければと思います。

 

追記:

この1か月ほど、特に職場での人や状況に対する怒りのパターンや、いつ何回起こったかを観察するようにしています。

 

そして、怒りに任せそうになるのを何度も少しずつ選択を変えることができて、その度に目から鱗な感覚で、他者や状況の中に恐れという幻想を見ていたということに気づく連続です。

 

でも、ひとつ克服できていない(その状況が起こるときに怒りのままにならないでいられるか全く自信がない)ことがあります。

 

それは、自分が言ったり考えたりすることに対して否定されたと感じてしまう時や、何かの注意を受ける時です。

 

そこはどうしたらいいのかなと取り組み中です。

毎日の心のお掃除

心の師匠のそのまた師匠は、早朝、鬼のような形相で毎日毎日必ず雑草取りをされていたそうです。

 

自我という心の埃を祓い清めるために。

 

雑草は刈り取っても刈り取ってもすぐにまた生えてきます。

 

その度にまた刈り取っていく。

 

自我という埃も同じこと。

 

自我は消えることはなく流れ続けてくるものだけれども、流れてきたのなら選択しない、何度でも何度でも刈り取ることを習慣に。

 

今日はそんな師匠の話を思い出しています。

 

私の理不尽な怒りによる関係性の破壊と、心の師匠の病が重なり、こんなに何ヶ月もお会いしなかったことは初めてですが、逆にこの期間が心や自分がやってしまう怒りのパターンというものに真剣に向き合うということをももたらしてくれているようです。

 

奇跡のコースでは自我に気づき聖霊にゆだねるという形で、バイロン・ケイティの問いかけでは思考に気づきなさい、そうすれば思考の方から放してくれる感覚がありますと述べられています。

 

その他の本質を突くスピリチュアルというのも、きっと同じところを指しているのだと思います。

 

心の師匠との時間で行ってきたのも、あらゆる知覚は幻想であり、心地よくないのであればそれは神から離れていること、知覚を疑いなさい、自我を疑いなさいということです。

 

心の師匠からは目覚めの一瞥は重要ではない、そのあとが重要なのだとキツくキツく言われ続けてきました。

 

さて、ふとこんな話を思い出したのも、この数日の私の怠慢が重なってきたからです。

 

会社員の仕事が忙しすぎて、心を振り返る(立ち止まる)ことをせずに、流し流しにしていたら、小さな苛立ちや怒りがポコポコと溢れ返り始め、これはやばいぞ!!と感じる一日でした。

 

今は怒りのパターンに気づいてやめたいと切に願い、より観察しようとしているからこれまで以上にささやかな波立ちでも気づけるのだと思います。

 

毎日の心のお掃除、自我の祓い清め、徹底します。

太っていて美しくない

奇跡のコースでも、非二元の話でも、バイロン・ケイティの問いかけでも、その他の真実を指すものでも、事実を事実としてありのままに観ることに通じているのかなと考えています。

 

どんな道具を選んでもいいし、どんなに回り道をしてもいい。

 

奇跡のコースのレッスンも(これはやっぱりテキストも不可欠と感じています)、バイロン・ケイティの問いかけも、真実はただ真実としてあるだけであり、本当はあなたを苦しめてはいないし、傷つけてもいないと気づかせてくれ、どちらも自分自身の世界への解釈を取り下げていくこと(知覚の転換により本当は自分を縛りつけるものはないと気づくこと)だと今の私は感じています。

 

今は、ちょっと厳しめに自分自身が執着している思考や信念を洗いざらい見たいと思っていて、バイロン・ケイティの「ザ・ワーク(ダイヤモンド社)」にひたすら取り組み中です。

 

私の使い方は、第1章・第2章・第5章を読みこんで流れを染み込ませ、その日怒りやイライラを感じたことでワークをしたり、先に題材を書き出して、その他の章のセッション(ケイティとクライアントの対話)をそのまま自分自身に当てはめていったりしています。

 

決まった形式とセッションでの対話を繰り返し読み込むことで、必要な形で自由自在に使えるように(鋭い突っ込みを自分に入れて混乱を紐解いていけるように)なりたいと思っています。

 

本来は慣れるまでは他者を題材にすることを推奨されていますが、どうしても自分の容姿の問題に取り組みたくて、少し練習した後で第11章「体と依存についてのワーク」もやってみました。

 

中学・高校時代に太って大学時代に20kgほど体重を落とし、23歳の頃は身長153cmに対して54~56kg程度、そこから過食衝動を繰り返して現在は82kgとなっています。

 

痩せた経緯を話したとき、心の師匠からは根本の恐れ(心の問題)が解決しない限りは物理的にダイエットをしても必ず体重は増えるよと言われていました。

 

ちなみに私のベスト体重(恐れがまったくない状態)は46kg程度です。

 

それだけ恐れで覆っているということです・・・。

 

過食の問題についても見ていく必要がありますが、まずは痩せて美しくならなければならないという理想と、何度もダイエットに失敗するという現実のギャップへの苦しさから何とか少しでも自由になれないかと思って試してみました。

 

例えばこんな題材で。

 

「私は自分が太りすぎていることに不満と怒りとやるせなさを感じています。

なぜなら、周りからバカにされるように感じて自信が持てないし、豚のようで何の取り柄もないおばさんに思えて悲しくなるから。」

「私はもっと痩せて美しくなってほしい」

 

指示通りワークをしていき、置き換えで主語を体重から「考え」に置き換えたところ、「私は私のの考えに怒りを感じる。なぜなら太っていて醜いから」と「私は私の考えがもっと痩せて美しくなってほしい」と出てきました。

 

これを見たとき、私の体重・体型への思考の執着が、可笑しくて笑えてしまいました。

 

問題は、私の思考が太っていて美しくないからということが腹に落ちたからです。

 

自分の体重に問題があると感じるときはいつでも思考が煩雑で醜く、その瞬間にまともでなくなり、体は私のその囚われの思いを見せてくれているにすぎません。

 

ケイティは、あなたが理解でいるまで体は師として優しい道を示してくれると言っています。

 

このことに気づいて、考えるたびにビリーフが滑稽で笑えてくるようになってから、今のところ、心の痛みを隠そうとしたり、自分の言動が恥ずかしくて感覚をマヒさせようとしたり、自分の人生や自分が無価値で消えてしまいたいという気持ちを紛らわせたりのために、感じると同時にお菓子やインスタント食品やごはんを瞬時に口に入れていた衝動が無理なく止まっています。

 

入り口にすぎませんが、もっともっと自分を苦しめているものを見て、思考のダイエットをしていきたいです。

 

今のところ、ワークは、置き換えによってはっとさせられるようなことに気づく日もあれば、う~んそうかな・・・という感じの日もありますが、自分に誠実に誤魔化さず続けていこうと思います。

信念を見つめていくこと

自分の中のおぞましいものを恐れずに誠実に見つめていこう、自分自身が行ってきた言動への責任をとっていこうという覚悟を定め、現在、知覚(感じていること、こうだと判断していること)に対して疑いを発するということを行っています。

 

奇跡のコースもそうですが、本当のスピリチュアルは、徹底的に現実的であり、どんなツールや道であっても、自分を不自由にしている信念や価値判断に気づいて自由になること、事実を事実として見ることに通じているのではないかと考えています。

 

少なくとも私の心の師匠たちはは現実(今起こっていること)から逃げていいよ、全部ワンネスで愛で問題などないということは言ってくれません・・・笑。

 

非二元の側面からは確かに起こることは起こるままであり、私というものも問題も存在しないけれども、目覚めの一瞥が大事なのではなく、大事なのはそのあとということも相当にキツく言われてきました。

 

今回は、久々にバイロン・ケイティの「ザ・ワーク」に取り組み始めました。

 

このワークは、誤魔化しが効かないので、逃げ回ってばかりいましたが、とうとう観念して、今必死です。

 

入り口は、一番扱いやすい(気づくことが容易な)激しい怒りを感じたことを題材にしながらです。

 

どれほどコントロールしたいとか変えたいと思っても、起こっている状況も他者も私たちには変えることができません。

 

私たちが何とかできるもの、責任の範囲が及ぶものは、自分自身が選択している物事への見方と心の平安だけです。

 

知覚に対して疑いを発するということは、自分が選択しているビリーフ(思考や信念)に気づくこと、責任を自分に戻して被害者意識から脱していくことに役立ちます。

 

私は長年、親子関係の問題、特に母娘の関係性に頭を悩ませてきました。

 

カウンセリングを通して、その母娘関係において母が毒親であること、母に対して怒ってもいいんだということも何度もカウンセラーと一緒に見て認めてきました。

 

罪悪感の方が大きすぎて(母は娘にこんなに一生懸命やってくれている、母は自分を犠牲にして娘を優先してくれた、こんなに取り柄のない娘でごめんなさい等)、残っている課題もたくさんあります。

 

一方で、本当に母が悪いのか、母が変わればよかったのかと突き詰めていくと、そのまた上の世代においてもおそらく娘であった母としてはそうなるしか致し方がない部分もあり、誰かを責めることはできない、その人(母)がその時にそうであったのはそうしかできなかったからだということもまた一つの事実だと考えています。

 

話が逸れてしまいましたが、結局のところ、誰かを責めたり誰かが変わったりしたところで本当の本当は自分の中に平安は訪れないのだな、解放されるべきは自分の選択している信念やビリーフだけからなのだな、というのが私が選択している考えです。

 

そのためには、どれほど愚痴や不満を言ってもいいけれども、自分自身が自分の心の平安に責任をもつこと、何を感じていたとしても自分の選択として一旦認めることがスタートとなります。

 

私は、自分の人生に、仕事や結婚のこと、何もできない自分のこと、両親との関係性のあらゆることに不安や不満を持っています。

 

半年前、ぐるぐると終わりなきその不安と不満の迷路をぶつけ続けたとき、心の師匠から、「それならやめたらいい(具体的には仕事のことについて)」と言われた一言が私の怒りを喚起し、ずっとしこりのようにひっかかっていました。

 

でも、今改めて自分が怒ってしまうときをひとつずつ見つめていくと、心の師匠からの一言は、「他者や状況のせいにするのでなく、自分自身の心の平安に責任を持ちなさい。そこからしか何も始まらないよ。」というものすごく鋭い言葉だったのだと深く深く突き刺さっています。

 

自分の選択に責任をもつことへ立ち返らせる機会となりうる言葉を、当初、しかと受け取れず、怒りをぶつけて関係性を破壊してしまったこと、とても悔やまれます。

 

感服の思いと、今からでもその言葉が指してくれるものと向き合いたいという思いでいっぱいです。

旅のこと

今日は旅のことを書いてみようと思います。

 

今も旅の真最中だから・・・。

 

心の師匠と出会った頃、勧められたことのひとつに一人旅があります。

 

とにかく言われたことはやってみようという若さゆえの素直さから、勇気を出して旅に出ました。

 

そんなに遠くに何泊も一人でお出かけすることへの不安、両親からどう思われるかを考えるときのキュッと胸を締め付けられるような不快感を今も覚えています。

 

初めての旅先は、長野県の山奥の戸隠村

 

見たこともないほどの雪の量、一面の幻想的な雪景色。

 

最初に一人旅をした地はやはり思い出深く、人生に、自分の気持ちに躓くたびに今も訪れます。

 

昼間でも雲が厚く薄暗い中で、しんしんと降る雪、その静けさに静かに静かに感動が訪れていました。

 

両親との旅行では、計画をしっかり立て、観光地を無駄なく回り、お金をかけた以上意義のある旅(成功)にしなければならないという雰囲気があります。

 

そんな旅行しかしたことがなかったのに、どこへも行かず、宿でぼーっと窓の外のぽっぽっと積もりゆく雪をただ眺めている。

 

何をするよりもとてもとても贅沢な時間で嬉しくなったことを覚えています。

 

心の師匠の意図としては、一人旅をすることで、家族から物理的に離れて間(ま)が訪れ気づきの機会がもたらされること、両親が知らない世界や感覚をもてること、そのためだったのではないかと今は感じています。

 

初めての一人旅で感じたことを両親は何一つ知りません。

 

この戸隠への旅を皮切りに、神社と自然と温泉を起点として、年間、相当数の旅に出るようになりましたが、それぞれの旅でふと感じることは誰かや何かに影響されたものではなく、本当に自分の中からわきあがってくるものであり、そうしたものは印象深く、記録になどしなくても明確に蘇ります。

 

そうしたひとつひとつが私にとってとても大切なもののようなのです。

 

だからつい旅に出たくなってしまうのかもしれません。

 

家族関係や親子関係の問題、それは他者との関係性や仕事での問題などにも密接に関わりますが、これまでのやり方をいきなり変えたり、振り返ることは難しいこともあります。

 

特にご両親と気づかないうちに精神的癒着状態に陥っていたり、母親との精神的へその緒が切れていないときには特に。

 

(上記は言葉がきつくなっていますが、それが心地よいのであればいいのですし、分離することに罪悪感があるのも当然です。私自身も罪悪感には自分自身に手を焼いています。)

 

そんなときには、物理的距離を一旦とる、つまり緊急避難することで俯瞰するための間を持つという手立てもあると私は考えているのですが、一人暮らしが難しければ、一人旅から始めることを私は推奨したいです。

 

私は、アダルトチルドレンであり、認知の歪みも大きく、予測不能なことは怖く、また白黒思考でもあります。

 

そんな人間が旅に行くとなると、しっかり準備と計画を立てて不安を少しでも減らして・・・となってしまいます。

 

でも私は旅に関しては、普段の生活でやっていること(計画をがちがちに立てる、成功失敗と判断する、意義や意味を求めて無目的を楽しめない)だけはやめよう、旅という非日常を使って楽しみながらその練習をしようということだけは意図しています。

 

無目的な時間を自分を裁くことなく味わうこと、観光よりもその土地に住むようにゆっくりと過ごしてみる贅沢、気づけばこれがとても好きになっていたり、旅のスタイルにいつの間にかなっていました。

 

成功失敗という判断から自由であること、無目的な中や計画を立てない予測不能な中でも安心していられること、これは旅に限った話ではないと思うのです。

 

以上、私の旅好きのお話でした。